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「遊んでいるときや休んでいるときに罪悪感にとらわれる」という方は、少なくない。
時間は何かを身に付けるために「投資」しなければならない、将来の利得につながるなにかに使わなければならない。そう思っているから、こんなことに時間を「浪費」している場合ではない!と、いまの自分を否定してしまう。
文化を「楽しむ」のではなく、たとえば
「モダンアートに投資したら儲かるだろうか」
「モダンアートに投資している人たちとの人脈を作れるだろうか」
となる。現実に、モダンアート投資は「儲かる」し、その投資サークルに入れば「儲かる話」を回してもらえたりはする。
しかしそれは、儲からないアートには価値がないということだし、儲け話を回してくれない人間関係にも価値がない、ということだ。
同じように、「遊びや休みは罪悪」と思うようになると、遊びをプロデュースする力が激減する。上記のアートの例と同じで、視野と対人関係が「儲かりそうか、そうでないか」の一軸でスパンと切られ、「儲かりそうにない人やものごと」に対しては「いまバタバタしていて.....落ち着いたら連絡するよ!」となる。
「忙」とは「心(りっしんべん)を亡くす」と書く、とはよく言ったものだ。
人生は超・長距離走である。ときに立ち止まって、痛い脚をさすり、まわりの景色を愛でて、深呼吸してみる。そういう休憩に「罪悪感」をおぼえる人は、この先、よけいに苦しくなる。痛くなる。ひいては、走れなくなってしまう。途中リタイヤとなったら、序盤や中盤までどんなに快走していても、元も子もないよね?
これは「夢中に何かに打ち込んでいるとき」にも同じであって、「はっ」と気づいて休憩をいれることが必要。腸からドーパミンが出ていて「うひょ〜!全力で走るの、気持ちいい〜!!」となっているとき(いわゆるランナーズ・ハイ)こそ、その快楽をそこそこ楽しみつつ、休憩する勇気をもちたい。ドーパミンはいつかは切れる(つまり、飽きる)。そのときに休憩が足りていないと、ものすごい疲労感と痛みの反動に襲われる。
「好きなことならいくらやっても疲れない!」という最高の状態のときこそ意識して休まないと、後半バテる。
そういうドーパミン状態とは逆に、追い込まれて「ケツに火がついて」何か達成しなければ、人より前に出なければ、という場合もある。どうしてもこの資格を今年中に取らないと来年赴任できない、とか。楽しくないけどそんなこと言ってられない。そんな場合に、「必死」になるのは悪くはないが、絶対に失敗できないからこそ、「オフのスイッチ」をときどき入れないといけない。
こういうとき、伴走して客観的に「ちょっと休みな、あなたさいきんヤバいよ」と言ってくれる人がいるひとは、とても幸せだね。
がしかし、そういう大切な人のアドバイスに対して、えてして「うるさいよ!ちょっと邪魔しないでよ!!」となりがちだ。「ドーパミンがドバドバ」もしくは「必死」のときには、ひとに耳をかさなくなる。そんな話は「時間の無駄」であり、そんな人とメシ食ったりチャットしたりするのは「罪悪感」を感じていまう。そして「儲かる話」「うまくいく話」をもって来てくれる人だけに惹かれていく。
いちばん休まないといけないとき、人は休むことを拒み(罪悪感)、休みをすすめる人を拒む。そうしてぶっ壊れてから気づく。ああ、あの忠告はこう言うことだったのかと。
こっちがぶっ壊れたら、「儲け」で「かたく結びついている」と思っていた人たちは、誰も寄り添ってくれないよ。なんと言っても向こうも「忙」、壊れる前のあなたと同じで心を亡くしているからね。壊れたあなたなんかに時間をつかうのは「罪悪」。
そんな最悪の状況になるという「大失敗」を、イマジネーションできるだろうか。シミュレーションできるだろうか?
ここ2週間このコラムで「失敗の想像力」の大切さを強調して来たんだけど、いちばん伝えたかったのはこの話なんだよね。
遊びや休みは罪悪と信じている方、「儲かりそうもない縁」を断捨離しまくっている方、アドバイスしてくれる方に耳をかさない方。いちど、自分自身の「充電が切れて(もしくはギガがなくなって)」、いまの速度で走り続けられなくなる状態を、シミュレーションしてみませんか。
.....って言われて「なるほど、そうか」と思えるような方は、そもそも心配ないんだけどね。
心配なのは
「おい草龍、また説教かよ?たまには『サクッと役立つ記憶術』『試験本番でのTips』とか、そういうの書けないのかよ!?」
というふうに、心を亡くした「忙」の方々。あんまり「忙」の度が過ぎて、周りを傷つけ続けたりすると、、、「忙殺隊」の剣士に、「遊の呼吸」で退治されちゃうよ!
(USCPA講座 草野龍太郎先生)