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「もう、空気なんか読むな」などと教える人がいるが、簡単に間に受けないほうがよい。
「空気」の成分の9割は「バチがあたることへの畏れ(おそれ)」だからである。他人がなにかを畏れているということを、決してナメてはいけないのだ。
草龍の仮説では、この「バチがあたる」とヒトを畏れさせる原因は、下記の5つに分類できる。
1、「不謹慎」
つまり「畏れを知らない」モノにはバチがあたるという畏れである。
これに起因した不快感のあらわれが、例えば「自粛警察」だ。
また、会社や学校やネット上で頻繁に見られる「出る杭は打つ」「上から目線の偉そーな奴は叩いて引きずり下ろす」という行為もそれである。
2、「もったいない」
無駄遣いはバチがあたるという畏れ。最近は「レジ袋やめよう運動」として表出している。
3、「人工」
自然に対して手を加えるとバチがあたる。「反科学」のヒトたちのことは、この数ヶ月間数え切れないほど見たよね。
4、「金儲け」
神社でのお賽銭というのは「ケガレたお金とともに、ケガレを落とす」行為だ。そのくらい、お金儲けはバチがあたりかねない行為と嫌われている。普通預金・郵便貯金・タンス預金が大好きな「反投資」もこれが影響。
5、「楽をする」
「汗水をたらさない」「手を抜く」とバチがあたると頑なに信じる人はものすごく多い。都心のオフィスでも「反効率化」「反機械化」「反自動化」を主張する人だらけだ。
以上5要素からなる「バチがあたることへの畏れ」は、ずばり減点主義に直結する。これはリワードプログラムの真逆だ。「善行で天国行き(など)を目指す」のではなく、「叱られる行為に対するペナルティを避ける」のを目的とする信仰である。
さらに、そのペナルティをくらうのは、やらかした本人だけではなくムラビトみなが巻き添えとなる、という連帯責任への恐怖も根強い。お前ひとりが病気になるだけならまだしも、ムラ全体に病気流行っちまうだろう、的な。
この恐怖のために、個人の行為を集団で圧する厳しい同調プレッシャーがかかるわけだ。
逆に「◯◯をやっても、バチは当たらない」という確信があると、急にめちゃくちゃ強気になる。「赤信号 みんなで渡れば怖くない」という至言は、まさにここから来ている。
このため、人工的なルールごときには決して従わない。「賭け事を禁じる法律」を破って、それでバチが当たったひとなんて見たことないよ。だいたい、汗水たらしてアタマ使って寝ないで必死に麻雀してんだよこっちは。それでバチがあたるのかよ.....みたいな。
判断の根底は「バチがあたるか、それともセーフか」。だから子供や部下にも、「悪だから/美しくないから、そういうことをしてはなりません」とは教えないよね。
「お巡りさんが来るよ」「うるさいことを言う人に叱られるよ」「内部通報で刺されるよ」などとしつけるでしょう。「俺は問題ないと思うんだけどさ、ほら、昨今うるさいでしょコンプライアンスとか...」
みなさんには、このムラで成功しつづけて頂かなければならない。よって、心得を授けたい。
1' .「不謹慎」と思われてはならない。これすなわち、「バチがあたるのをおそれる気持ちをバカにしていると思われてはいけない」ということだ。
2'. 「無駄遣い」をしていると思われてはいけない。
ただし、「ケチ」はさらに総スカンとなるから注意が要る。
3'. 「あたかも自然のように見える人工物」を積極的に愛好すること。
ほんとうの自然に接したら、まず人は生きていけない。人々が「自然だ」と勘違いしているのはほとんどが「あたかも自然のように見える人工物」である。が、そのことをdisってはいけない。
4'. 「金儲けが好きな人」とレッテルをはられないために、投資の話はみだりにしないこと。
5'.「サボろうとしている人」とレッテルをはられないために、「デジタルトランスフォーメーション」「データドリブン経営」は決して楽をしようという話ではなく、実はこれからの新しい汗水の流し方なのでバチは当たらない ことを、真剣に訴求するべきであろう。
以上1?5の心得を実践し、人々の「バチがあたるといけない」という深層心理をリスペクトすること、これがすなわち「空気を読む」ということなのである。
ネットサロンで布教する偉人さんたちは空気を読まなくてもいおのかもしれない。しかしわれわれ会計プロフェッショナルにとっては「空気を読む」ことが絶対に必要である。
我々の存在価値は「人々の必死で真剣な営み」を記録して支援することだ。その任務のためには、人々が畏れ敬っていることを軽視するようなことは、決してすべきではない。
(USCPA講座 草野龍太郎先生)